小菅神社について御由緒

小菅神社の由来及び沿革

小菅神社は古来、戸隠山・飯綱山と併せて奥信濃三山と称せられた修験道の霊山、小菅山に有り、奥社と里社がある。
神社の創立は今より約一三八〇年前舒明天皇の代(六二九~六四一)に修験道の開祖、役小角が諸国遍歴折、当地に逍遥してその山容の秀麗と霊気に感じ絶頂に登って神人(素盞雄尊即馬頭観世音の化身)の霊告を受け、岩窟内に祠を建て馬頭観世音を祀り(素盞雄尊)、瞑目合掌していると熊野・金峯・白山・立山・山王・走湯・戸隠の七カ所の諸神が忽然と現れる。小角は霊感に驚喜して此の八神を岩窟内に祀る。
当時は神仏融合(混合)時代で小菅山の馬頭観世音の垂迹は素盞雄尊である。
このように、八ヶ所の権現をお祀りしたところから八所権現と称された。是が現在の奥社の起源である。後に、行基菩薩登拝され八所権現の本地の尊像を彫刻し、一堂を建て加弥吉利堂(カヤキリドウ)と名付けられた。これが今の馬頭観世音の前身である。

桓武天皇延暦年中征夷大将軍坂上田村麿東夷征伐の折に参拝し戦勝を祈り、凱旋後平城天皇の大同元年(八〇六)にその報賽として八所権現の本宮と加弥吉利堂を再建した。
小菅神社由来記によると、桓武天皇の御代に勅使鷲尾中将元隆が、東夷退治の祈願使として下向されたと伝えられ、それより平城・嵯峨両天皇(八〇六~八二二)の勅願所となった。更に元隆寺を創立して、金堂・講堂・三重塔・仁王門・鐘楼等建築し、続いて上・中・下の院三十六坊を完成し、広壮麗美を極め盛時は修験者僧侶三百余名居たと云われている。
永禄年中(一一六〇)小菅地域は後白河法皇の奇進により京都禅林寺(若王子神社)の庄園に属し、戸隠・飯縄と並んで修験の道場として著名であった。
建久八年(一一九八)源頼朝公が善光寺参詣の折、當山にも参拝され社領七百貫文を寄進された。
南北朝時代、正平十一年(一三五七)小菅寺合戦が有り岳南(中野)地方に勢力のあった高梨氏(北朝武家方)が當山に拠守したが、岳北地方に勢力があった市河氏(南朝宮方)が大菅口より攻め入り勝利した。小菅寺は市河氏に属したと云われる。

小菅神社柱松柴燈神事(国重要無形民俗文化財)
小菅神社奥社(国重要文化財)
小菅神社里社

正平二十年(一三六六)火災を被り神殿仏閣焼失した。室町幕府が確立し、足利義満将軍により京都禅林寺(若王子神社)の庄園が確認され、高井・水内の守護職泉氏重が将軍に請いて二十年の歳月を経て、後亀山天皇元中五年(一三八八)南北朝時代末期に至り漸く完成し再営となる。
永享元年(一四二九)小笠原信濃守持長と泉大炊頭持重の争い有り、持長敗れて小菅山に拠ったが持重の攻め来るにより火を放って逃走した。持重霊地の焼失を悲しみて回復を企て同年十月に僅かに復興した。
戦国時代に入り、越後春日山城主上杉謙信公の信心篤く弘治三年(一五五七)武田信玄公に対する戦勝を祈る願文を納められた。永禄四年(一五六一)川中島最後の激戦に上杉方が武田方に敗退し、小菅山に隠れたものと見て、武田勢が堂宇に放火し、さしもの広壮麗美を極めた霊域を全く凶焔焼亡の悲しみの極致であった。文禄四年(一五九五)上杉景勝公が秋田米沢へ移封されその際に、小菅八所権現及び元隆寺の分霊・什宝・記録・願文等を悉く移したと云われている。
慶長九年(一六〇四)大久保石見守長安が徳川将軍家の命により、社寺巡検の折に社領六十石を受け僅かに再興された。
明治二年(一八六九)神仏融合の禁令により、諸仏・什宝を末寺菩提院に移した。又、同年八月に社号八所権現を八所大神と改称した。明治四年社領を上知し、同六年四月に郷社に列せられる。同三十三年小菅神社と改称し、昭和八年十二月に県社に列せられる。昭和二十一年以後政令により社格廃止となる。

御祭神

素盞雄尊 本地 小菅神社
伊弉再尊 熊野(和歌山県) 速玉神社
広國押武金日尊 金峰(奈良県) 金峰神社
菊理媛命 白山(石川県) 白山比咩神社
大国魂命 立山(富山県) 雄山神社
大己貴命 山王(滋賀県) 日吉神社
瓊々杵尊 走湯(静岡県) 伊豆神社
手力雄命 戸隠(長野県) 戸隠神社
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